岡正治さん(1918〜1994)について

 

 岡正治さんは、牧師であり、長崎市議会議員であり、長崎・在日朝鮮人の人権を守る会の代表であり、忠魂碑訴訟の原告であり‥‥と、たくさんの顔を持っていましたが、70才を過ぎても少年のような若々しさとエネルギ−を失わなかった、とても魅力的な人でした。

 今でこそ日本の加害責任のことが一般的にも語られるようになりましたが、岡さんは非常に早い段階から日本の戦争中の加害責任を徹底的に追及し、特に長崎の闇に隠されていた「朝鮮人被爆者問題」を掘り起こし、手弁当で実態調査活動をすることで真相を明らかにする試みを続けていました。

 長崎の原爆公園(平和公園の一部・原爆投下中心碑がある公園)の中に、「朝鮮人被爆者追悼碑」があり、毎年8月9日の早朝には追悼集会が持たれています。この「朝鮮人被爆者追悼碑」は、岡さんによって建てられたと言ってよいものです。

 牧師としても、議員としても、一人の人間としても、岡さんは常に弱者の立場、差別され、虐げられる人々の立場に立ち、行動していました。人を踏み付けにし、反省せず責任も認めようとしない政府や企業に対しては妥協せず激しく闘い、その真っすぐな、愚直なまでの姿勢は、今どきこんな人がいるものか、と感嘆させられるような鮮やかさでした。

 晩年の岡さんが実現に向けて心血をそそいでいたのが、「日本の加害責任を明らかにし、今だ残る差別を撤廃し、政府に補償の実現をさせるための資料館の建設」でした。構想を練り、いよいよこれからという1994年7月21日、突然の病によって岡さんはこの世を去っていかれました。

 生前の岡さんの考えや行動、主張に共感し、岡さんの遺志を継ごうという者が集まって、「資料館」作りが始まりました。土地も、建物も、資金もないところからのスタ−トでしたが、とても不可能と思えることが次々と解決して行き、まるで岡さんがあの世から導き、自分たちを叱咤激励してくれているようだ、と基本的に「無神論」的な私ですら思いました。こうして、1年後の1995年、「岡まさはる記念長崎平和資料館」が完成したわけです。

 

 岡さんの著作(編・著を含む)としては、以下のようなものがあります。

  ◎自叙伝「道ひとすじに」(1975年)

  ◎「大村収容所と朝鮮人被爆者」(1981年)

  ◎「朝鮮人被爆者と私」(1982年)

  ◎「朝鮮人被爆者とは」(1986年)

  ◎「朝鮮人被爆者」(1989年・社会評論社)

  ◎「さびついた歯車を回そう」(1994年)

  ◎「原爆と朝鮮人第1集〜第6集」(1982〜94年)

 また、岡さんを追悼する文集として、

  ◎「孤塁を守る闘い—追悼・岡正治」(1995年)

があります。(以上の書籍は資料館で扱っています)

 

 最後に、追悼文集の「あとがき」から引用させていただきます。書いているのは、岡さんの良き同志であり、開館以来資料館の理事長を務めている高實康稔さん(長崎大学名誉教授)です。

※追記:高實康稔さんは、2017年4月7日に病のため亡くなられました。

 

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 岡先生が亡くなられてもうすぐ1年になります。振り返ればいつもそこに先生がおられるような思いで過ごした1年でした。

 追悼集に原稿をお寄せ下さった方々に心から感謝いたします。先生のご交際の広さと深さを改めて知らされ、先生の一面しか存じ上げない私に「あとがき」を書く資格があるのか悩みました。しかし、先生の生涯に人間の輝きを見て圧倒される人々の群れの中にいる一人として、勇気を出して拙筆を試みることにいたしました。

 ご遺族の追悼文はもとより、胸を打つ惜別のことばに、かけがえのない大きな存在を失った悲しみが再びこみあげてきます。人間を愛し、いつも若々しく、人なつっこい笑顔の先生。一見激しく厳しいようにみえながら、ユ−モアにあふれ、繊細で傷つきやすくもあられた先生。

 初めて知る事実・エピソ−ドも多く、とりわけ苦境に立つ人々への日常的な救援の数々に、今更ながら先生の偉大さが偲ばれます。一つの枝が苦しむ時、総力でその枝を支えるべきだという先生のキリスト教信仰は、周囲の人々の苦しみに向けられたばかりではなく、いわれなき差別に苦しむ在日韓国・朝鮮人や、放置されたままの外国人被爆者の救済へと先生を駆り立てました。また、差別と抑圧の根源として天皇制の本質を見抜き、天皇制を撃つ闘いに果敢に挑まれました。そこには祈りと実践、ことばと行動の見事な一致が見られます。先生の思想と実践がなければ、日本の加害責任の追及、政教分離の闘いは前進を阻まれたことでしょう。年齢、地域、職域を越え、多くの方々の追悼文に、惜しみない賛辞と畏敬の念さえ見い出されるのも自然なことです。私にとっても先生は中途半端な自分を写す鏡のようでした。そして、先生という鏡に照らしながら、思想の深化と活動のエネルギ−の獲得に努めるのが常でした。

 励まし育ててこられた先生はもう目の前におられません。けれども、その無念さにのみ打ちひしがれることなく、先生の生き方に学んだ証を未来に活かしたいと決意を語る方々に接し、先生の励ましが今に生きているのをひしひしと感じます。思想上の差異や多少の違和感の表明も当然のことながらありますが、批判を交えつつも先生の生き方には一様に敬服しておられます。無責任な日本、天皇制に毒された日本の現状を憂い、先生の活動が継承されることを望む方々にも感銘を受けます。困難な現状の分析のもとに、残された課題に取り組むことを自己の使命と自覚する誓いの文も少なくありません。先生によって蒔かれた種が、今、芽吹こうとしているのです。(後略)